流祖 久盛


久盛の生涯

京都で出生 

 久盛は文亀3年(1503)、従四位竹内近江守幸治(ゆきはる)の子として京都で生まれました。名は久幸(ひさゆき)で、後に久盛と改めます。家は天皇にお仕えするのが仕事でした。

  当時は応仁の乱の影響で、京の都は荒れ果てていました。

少年期に垪和へ移住 

 永正15年(1518)頃の少年期、久盛は二従兄弟にあたる竹内駿河守八郎為長(ためなが)と弟の竹内備中守為就(ためなり)の一行(※1)に連れられ、美作国・作州垪和(はが)郷(岡山県美咲町・岡山市北区建部町の一部)へ移住します。

 一行は本拠地を垪和の石丸(いしのまる/岡山市北区建部町和田南)に構えました。そして、鶴鳴山(たづなきやま)城を攻略して鶴田(たづた)城と改め、八郎為長が城主となりました。このとき竹内駿河守為長は、竹内から元々の姓・垪和(芳賀)へ改姓し、垪和八郎為長に名を改めました。

 久盛は、垪和為長・竹内為就兄弟に世話されながら、鶴田城の運営・整備に励むことになります。

 1.父の幸治、叔父の従三位竹内大膳太夫基治(もとはる)は天皇に仕える身だったので、都に滞在したままでした。

流祖久盛が居城した一ノ瀬城本丸跡
流祖久盛が居城した一ノ瀬城本丸跡

齢二十で垪和郷一ノ瀬城主 

 20歳を迎えた大永2年(1522)頃、一ノ瀬城(岡山県美咲町西垪和)が完成し、久盛は1万3千石の城主となりました。  一ノ瀬城は標高240mにある山城で、垪和八郎為長の鶴田城からは10㎞ほど上流に位置しています。騎馬を駆け巡らして戦闘することが困難な深山幽谷の地域に立地しており、麓には大川(後に旭川)が流れ、小さな川港がありました。

齢三十にして「一尺二寸」の小刀に開眼

   幼少期から県を好んでいた久盛は、城主になってからも城を抜け出し、西垪和三ノ宮にこもり鍛錬を重ねていました。

 小さな山城を拠点とする戦では、長い柄物を持った接戦よりも柄物を短くして組討ちをする方が有利なのではないかと考え、普通よりは少し短い二尺四寸(約72㎝)の木刀を用意しました。敵に見立てた大樹を木刀で打ったり飛跳したり、また、カズラ(当地に多く生えているツル植物)で武者をからめ取る術(捕縄)の稽古もしました。試行錯誤の末、齢三十にして一尺二寸の小刀と捕縄に開眼。群雄割拠の戦国時代に武将を生け捕りにするための秘術、悴家の捕手、「竹内流捕手」の誕生です。

 『竹内系書古語伝』には、流儀創始の由来を荘厳化する説話が延々と語られています。愛宕の化身・山伏から伝授されたという「神伝捕手五ヶ条」と武者を縄で搦め捕る「武者搦」は、幼少期から剣を好んでいた久盛自身の集大成の象徴です。修業の成果を自らの成果としないで 神伝とする考え方は二代目以降も引き継がれます。

一ノ瀬城の落城 

 天正8年(1580)、久盛は岡山城主宇喜多直家の大軍に一ノ瀬城を攻略されました。毛利輝元軍の加勢もなく落城し、播州へと逃げのびます。すでに齢78歳で、領地領民を治める道とは決別する意志を固め、帰農しました。

 3年後、久盛は息子らと一族の本拠地石丸で 再会しました。自らが編み出した流儀「捕手腰廻小具足」はすでに有名になっていましたので、これを家芸として生計を立てる道を息子二人に託します。 

 親の思いを継ぐことになった長男は竹内五郎左衛門、次男は竹内藤一郎でした。 

「ハガンサマ」と呼ばれている新城の久盛の墓(昭和40年代撮影)
「ハガンサマ」と呼ばれている新城の久盛の墓(昭和40年代撮影)

晩年の久盛 

 段取りを済ませた久盛は、原田庄(現岡山県美咲町)の原田三河守に嫁いだ娘の厄介となります。そして、文禄4年(1595)旧暦6月晦日、93歳の生涯を閉じました。新城の墓地には石塁の上に五輪があり、手前の墓石には「竹内中務大輔久盛墓」と刻字されています。

 この久盛のお墓は、地元の人からは「ハガンサマ」と呼ばれています。

 竹内家の墓所にある石碑は昭和11年8月に建立したもので、京都の従四位竹内惟斌子爵の謹書で「寶朱院殿榮照山道義大居士」と刻字してあります。


久盛の名前

 久盛の名は、「たけのうち・なかつかさだゆう・ひさもり」と伝承されています。

 漢字では「竹内中務大輔久盛」とか「竹内中務太夫久盛」「竹内中務丞久盛」などと史料によって異なっていますが、竹内家では代々伝承されている口承どおりの呼び方をすることになっています。

 

 ちなみに、竹内家の系図の添え書き『古語伝』では最初に掲げた表記「竹内中務大輔久盛」になっています。

 


流儀創始の説話

二尺四寸の木刀を二つに ⇒ 一尺二寸の小刀!
二尺四寸の木刀を二つに ⇒ 一尺二寸の小刀!

 群雄割拠の戦国時代のことです。主が城を留守にすることは危険極まりないのですが、一ノ瀬城主である久盛はこっそりと城を抜け出し、西垪和三ノ宮にこもりました。

 

 久盛は、幼少期から「勇壮アリ好剣ヲ」(古語伝 原文)という人でした。そのために、小さな山城を拠点とする戦では、長い柄物を持った接戦よりも柄物を短くして組討ちをする方が有利なのではないかと考えました。そこで、普通よりは少し短い木刀を用意しました。二尺四寸(約72㎝)の長さです。

 

 太刀に比べればずいぶん短いこの木刀で、大樹を打ったり飛跳したりして鍛練を重ねました。試行錯誤しながら形のあれこれを試しました。もちろん、大樹を敵に見立てての工夫鍛練です。

 

 六日が経って夕方となりました。もうくたくたです。心身ともに疲れ果ててしまい、つい、木剣を枕にして横になってしまいます。天文元年(1532)旧暦6月24日、久盛が30歳の壮年期のことです。

 

 名を呼ばれる声に久盛が目を開けると、北の空に白髪の山伏の姿がありました。顔かたちが暴猛で眼光が鋭く、身の丈七尺余り(210㎝少々)。妖怪のような大男です。久盛は木刀を取って戦を挑みましたが組み敷かれてしまいました。

 

 この世の者とは思われない大男と久盛とのやり取りが始まります。

 

 山伏は言いました。

  • 「長キニ益(やく)ナシ」(原文)「長いものは役に立たない」(現代語訳)

 そして、木刀を二つに切って、一尺二寸(約36㎝)の小刀(小具足)にしてしまいました。

 

 小刀? 短い刀です。「しょうとう」といいます。竹内家の系図の添え書き『古語伝』に登場する用語です。

 

 さらに、続けます。

  • 腰ニ帯セハ小具足ナリ(原文)「腰に差したら小具足である」(現代語訳)

 小刀を腰に差して、捕手五件の形を稽古しました。また、木に巻きついているカズラを取って、武者をからめ取る術(捕縄)の稽古もしました。

 

 すでに、日は西に傾いていました。突然、神風が巻き起こり、土砂が舞い上がり、雷鳴が轟き渡りました。

 このときの様子を『古語伝』では次のように記述しています。

  • 「神息風ヲ起シ、土砂塵埃ヲ揚ゲ、雷電震動シテ、始メ見ルトコロノ客帰ル所ヲ知ラズ」(現代仮名遣い)

 こんなことはあり得ないというような、実に不可思議な情景です。これが『古語伝』の記述です。

 

 はっと気がつきました。その時には、あれれ、どうしたことでしょうか、先ほどの客人、始め見るところの客の姿は消え失せていました。

 

 どうやら久盛は、夢うつつの中で捕手の流儀を悟ったようです。六日間の修業の成果がやっと結実したのです。これは竹内家の口承です。

 

 あの山伏の姿は愛宕の化身だったのでしょうか。久盛は、下弦を過ぎた月明かりの中で夜を徹して愛宕の神を礼拝しました。

  • 「ソノ夜ハ通夜礼拝ス」(現代仮名遣い)

 そして、捕手五ヶ条の形と武者を搦め捕る捕縄の結び方を繰り返してみました。

  • 「以来、受ケルトコロノ五件ヲモッテ悴家ノ捕手トス。小具足組討ヲモッテ腰ノ廻リト号ス。ソノ業、妙域ニ至ル」(現代仮名遣い)

 

 齢三十にして一尺二寸の小刀と捕縄に開眼! 群雄割拠の戦国時代に武将を生け捕りにするための秘術、悴家の捕手、「竹内流捕手」の誕生です。『竹内系書古語伝』には、流儀創始の由来を荘厳化する説話が延々と語られています。

 

 愛宕の化身・山伏から伝授されたという「神伝捕手五ヶ条」と武者を縄で搦め捕る「武者搦」は、幼少期から剣を好んでいた久盛自身の集大成の象徴です。修業の成果を自らの成果としないで 神伝とする考え方は二代目以降も引き継がれます。そして、竹内家では、今もなお愛宕神を祭祀し続けています。


捕手腰廻小具足

 小刀を駆使する「捕手腰廻小具足」(とりてこしのまわりこぐそく)は、戦国時代には異色のわざでした。

 

 竹内流では、小刀のことを「小具足」と呼び、また、小刀を駆使する術技のことも「小具足」と呼んでいます。この小具足組討のことを竹内流では「腰廻」と呼ぶことになっています。

 

 次は、竹内家の『古語伝』の記述です。

  • 「コレヲ帯セバ小具足ナリ。今、小刀ヲ小具足トイウコト、蓋シココヨリ言ウノミ」(現代仮名遣い)
  • 「小具足組討ヲモッテ腰廻ト号ス」(現代仮名遣い)

 以来、竹内流の目録には「捕手腰廻小具足」「捕手腰之廻小具足」「腰廻小具足」「腰之廻小具足」などと書かれるようになりました。

 

 この腰廻は、やがては素手で相手を捕らえる「羽手」(はで)へと発展することになります。

  

*「神伝捕手五ヶ条」=しんでん・とりて・ごかじょう

*「武者搦」=むしゃがらめ

*「羽手」=はで