《二代目と “武名” 》
竹内流の二代目は、竹内常陸介久勝です。父・久盛が65歳のときに側室との間に生まれた次男で、本名は藤一郎です。竹内流三代の ”子” にあたります。
一ノ瀬落城の折には、藤一郎は14歳でした。戦乱のむごさ惨めさを目の辺りにしました。
『古語伝』ではこのときの心情を端的に表現しています。
微運? なるほど!
このマイナスイメージが
というプラスの原動力となりました。
天正14年(1586)旧暦6月24日、20歳のときですが、愛宕神に祈りを捧げて「必勝五ヶ条」を編み出します。その後、諸侯から仕官の招きがありましたがすべて断り、「武名ヲ後代二留メン」(古語伝)と欲する一心でした。
《二代目と武者修行》
天正17年(1589)23歳の春、藤一郎はついに武者執行(武者修行)に旅立ちました。
仕合を乞う人があれば
と豪語し、あえて乞う人には
という修行の旅でした。まるで命がけです。
筑前博多では、高城玄蕃という豪傑と真剣勝負をしました。
という名勝負です。竹内家が伝承している八ヶ条之事の一つ「玄蕃留之事」として今に伝わっています。
このほかにも、越前木ノ芽峠で中村武太之進を仕留めたときの「中村留之事」など、当時の真剣勝負がそのまま「形」として残されています。これらの形は『日本柔術の源流 竹内流』(日貿出版)などで公開していますが、その稽古や演武は竹内流門下の高弟に限られています。
文禄元年(1592)、武者執行の途上なのですが、藤一郎は京都で関白豊臣秀次卿に召されました。そして、名を「常陸介」と任じられました。以後、「竹内常陸介久勝」と名乗るようになります。久勝は諱です。俸禄は辞退し、数日間お仕えしただけで武者執行の旅を続け、竹内流の名を広めました。
えっ、数日間だけのお仕え? もったいない? あとは、「はてな問答」をご覧ください。
*「高城玄蕃」=たかぎ げんば
*「関白豊臣秀次卿」=かんぱく とよとみ ひでつぐ きょう
*「常陸介」=ひたちのすけ
*「武者執行」=むしゃしっこう:「武者修行」と同じ
*「俸禄」=ほうろく
《角石谷村に居を構えた二代目》
慶長元年(1596)、久勝は8年間の武者執行の末に故郷の石丸へ帰りました。竹内藤一郎ではなくて、秀次卿から賜った常陸介の官名を名乗ります。藤一郎を本名として残しながらも、竹内常陸介久勝です。すでに武名が高く、業形を増やしていましたので、兄久治と一緒の稽古場では互いに気まずい思いをします。そこで、和田南村石丸の兄と別離して角石谷村の豊作地原(ぶさちはら・後のたけのうちばら)に家宅・稽古場を構えます。山奥の谷間で小さな滝谷川のほとりなのですが、各地から武者修行者が続々と入門しました。
慶長9年(1604)のことです。美作国津山へ入封された森忠政公から竹内兄弟を召し抱えるという話がありました。兄の久治には5百石、弟の久勝には3百石で在所に居住を許すというのです。兄弟はこの公命を辞退しました。何と、3回も断ったのです。すると、公儀から「日本武家奉公差留」となってしまいました。
《二代目と日下捕手開山》
元和元年(1615)、久勝は、元服をした13歳の歌之助に藤一郎を名乗らせることにしました。そうなんです、二代目の本名藤一郎は、その後竹内家で代々相続襲名されることになるのです。
元和4年(1618)、竹内常陸介久勝は長男の藤一郎久吉を連れて京都の西山辺に稽古場を構えました。その表口には、
と表札を掲げました。
その2年後の元和6年(1620)春、久勝は後水尾天皇に息子の久吉との演武を叡覧して戴きました。そして宮中雨林に任じられ、「日下捕手開山」の御綸旨を賜りました。久勝54歳、久吉18歳のときの栄誉です。
以降、「日下捕手開山」の六文字は竹内流の象徴となり、流祖、二代目の血を引く竹内家が脈々と継承しています。現在では、藤一郎通居の竹内藤一郎家だけが流名や道場名などにこの称号を使っています。
*「石丸」=いしのまる
*「角石谷村」=つのいしたに むら
*「豊作地原」=ぶさちはら:史跡ページで解説
*「森忠政」=もりただまさ
*「日本武家奉公差留」=にほん ぶけ ほうこう さしとめ
*「日本宗道」=ひのもとそうどう
*「宮中雨林」きゅうちゅう うりん
*「日下捕手開山」=ひのした とりて かいさん
*「御綸旨」=ごりんじ
《二代目と掟》
武名を四方に輝かせ後代に留めようとした二代目竹内常陸介久勝は、真剣勝負や流儀の天覧など華々しい活躍をしました。
と隆盛を極めました。この久勝の流れが、現在の竹内宗家・相伝家の流れとなります。
現在に続いている竹内流の「掟」は、この久勝が制定したものです。
江戸時代の竹内流には、武士はもちろん、庶民も入門していました。当然、一緒に稽古をします。そこには、身分に関係なく門人が守るべき規範が必要だったのです。
その掟の九番目には、異色な項目が設けられています。
二代目は、流儀の形を広め、秘伝をまとめました。これらを伝授する師は誰か、久勝は自問自答し、竹内家を継ぐ者に一本化することが父久盛の遺志だとあらためて決断しました。それが「掟」という形で現在へ続いています。
当然のことながら、長男の藤一郎久吉、後の加賀介久吉に竹内流の三代目を継承させることになります。
《二代目の晩年》
竹内流の伝書の奥書には、
という表現が多く見られます。ということは、「久勝」を抜いては流儀が語れないほど重要な人物であることに他なりません。流祖久盛の創始した流儀は、二代目によってゆるぎないものへと進化を遂げているのです。
晩年の二代目は、流儀の師を三代目久吉に託し、七十代、八十代の余生を静かに送ります。そして、寛文3年(1663)9月10日、97歳で没しました。
えっ、97歳? 目を疑う、いや、耳を疑うような長寿です。
竹内家の仏壇には、「正覺院日證常雲禅定門尊霊」と朱漆書きされた位牌が安置されています。そこには「行年九十七歳」の文字が見えます。古語伝にも「行年九十七歳」と明記されています。
竹内家の墓所にある二代目の墓石は風化に耐えています。そこには350年余の時間が流れています。しかし、「二代目」の3刻字は妙に鮮やかに、今に生き続けています。
*「天覧」=てんらん
*「墨附」=すみつき
*「規範」=きはん
*「宗家」=そうけ
*「相伝家」=そうでんけ
《二代目の兄 久治》
流祖久盛の長男竹内五郎左衛門久治は、父・久盛と正室の間に生まれた子です。天正8年(1580)の一ノ瀬落城の折には四十代に達しており、すでに78歳を迎えていた父を補佐しながら城代として大活躍をしました。
一ノ瀬落城後は加須谷助衛門の世話になり、2年後に一族の本拠地「石丸」(現岡山市北区和田南)に居を構えました。現在は石丸屋敷として残っています。
慶長9年(1604)に森忠政公が美作国津山へ入封されたのですが、名士を四方に求めました。その際に、久治には5百石、その弟・久勝には3百石で在所に居住を許すという話がありました。兄の久治はこの公命を辞しました。角石谷村に稽古場を構えていた弟も同じです。
《兄 久治の流儀》
久治は、一族の本拠地石丸で流儀の伝授を続けました。流儀は、弟・久勝と同じく「竹内流」です。久治以降の代々の師が伝授した目録には「竹内流捕手腰廻」とか「流祖・竹内中務大輔久盛」などと記されています。竹内一族の兄弟ですので当然です。
しかし、久治は、武者修行で名を馳せて一躍有名になった弟に負けまいと、
して業形を工夫し、広めました。そのため、弟の流儀と区別するために「竹内畝流」とか「新流」と呼ばれています。
おっとっと、「竹内畝流」や「新流」という名称の流儀は存在しません。呼称として『竹内系書古語伝』に登場するもので、これが書籍などで紹介されて広まりました。前述したとおり、兄の流儀も弟の流儀も「竹内流」であり、「竹内流腰廻小具足」なのです。もちろん、「竹内畝流・・・」とか「竹内新流・・・」と書いた目録はこの世には皆無です。
《兄 久治の系譜》
兄久治の系譜は、久治から数えて九代目の竹内虎治郎久信まで続きました。しかし、久信の子は業形を継ぎませんでした。そのために、子から子(養子を含む)へという竹内流の伝承形態は完全に途絶えてしまい、流儀は失伝してしまいました。
久治以降の竹内家は「竹内宗家」と呼ばれています。その分家もあります。数百年を経た現在、住み替えなどで環境は大きく様変わりしていますが、久治の血脈は十数代を経て現在も脈々と続いています。
*「石丸」=いしのまる
*「日本武家奉公差留」=にほんぶけほうこうさしどめ
*「畝流」=うねりゅう
『竹内姓系図』や『竹内系書古語伝』、伝書、口伝口承、関係書籍、墓石刻字、史跡、竹内家の民俗、流儀関係者の演武などに基づいて、公式情報を発信します。
Copyright(c)2017 Takenouchi-ryu All Rights Reserved.
画像や文章の無断転載はしないでください。