われ、かならず勝つ!
《小兵の三代目》
三代目を継ぐことになる久吉は二代目の長男で、幼名は歌之介。竹内流三代の”孫”です。身長四尺八寸(約144㎝)足らずの小兵でした。しかし、術技は秀でており、後に数々の武勇伝を残すことになります。
元和元年(1615)、元服した13歳の久吉は父の本名・藤一郎を継ぎました。そして、晩年まで竹内藤一郎久吉の名で通すことになります。
翌2年(1616)には、京都に稽古場を開いた父に同行して流儀を広めます。14歳ですね。
その4年後には18歳となりますが、久吉は父と一緒に捕手の術技を演武し、後水尾天皇の叡覧に浴することとなりました。これは画期的な出来事で、二代目竹内常陸介久勝が「日下捕手開山」の称号を賜ったときの父子なのです。
《三代目の武者修行》
元和6年(1620)冬、18歳の久吉は流儀を広めようと武者執行(武者修行)に旅立ちます。問う者がいたら
と答えていました。
長崎では身長6尺3寸(約189㎝)の五嶋隼人を組み伏せ、門人にしました。与州河野では、初老(40歳)なのに六十人力という伊藤又兵衛を門に従えました。
また信州の諏訪では、身長六尺八寸(約204㎝)、八十人力の高木藤右衛門と無刀で仕合をして組み伏せ、縄を掛けました。そして門に従え、関東巡行中は稽古相手として同道したということです。武勇伝はまだまだ続きます。
五畿七道を10年間遊歴して帰郷しました。28歳です。諸侯から召し抱えるとの沙汰がありましたが、父同様に官禄を辞退しました。しかし、流儀の指南には快く応じています。
*「日下捕手開山」=ひのしたとりてかいさん
《大男 vs. 小兵》
久吉といえば、津山城主森公の家臣高木右馬之助重貞との御前試合が有名です。右馬之助は身長6尺8寸(約204㎝)で五十人力の剛勇です。これに対して四尺八寸(約144㎝)足らずの小兵、藤一郎久吉が立ち向かうのです。
まずは久吉が右馬之助のひざを蹴り上げ、後ろ向きになります。右馬之助は久吉を強く羽交い締めにします。策略どおりの「おおごろしはずれなし」の形です。久吉は右馬之助を岩石投げにして縄を掛けます。しかし、縄は引きちぎられます。再度縄をかけても引きちぎられます。三度目には真紅の縄を掛けて懐剣をのどに当てました。すると、御前から勝負ありとの声があって、双方は平伏しました。
このような経緯で右馬之助は竹内流の門に入りました。師は、父 二代目常陸介久勝です。捕手腰廻小具足の形の指南を受け、目録が授与されました。しかし、掟によって竹内流の師を名乗ることはできません。そこで右馬之助は、いくつかの形を整理統合して「高木流」の業形に昇華させました。それから380年を経た現在、高木流は楊心流・九鬼神流と統合され、神戸の地で継承されています。
*「右馬之助」=うまのすけ
*「小兵」=こひょう
*「高木流」=たかぎりゅう
*「楊心流」=ようしんりゅう
*「九鬼神流」=くきしんりゅう
《官名・御綸旨・通居》
寛文3年(1663)、久吉は長男の弥五左衛門久且、次男の角左衛門久次(後の四代目)と一緒に京都へ出向き、関白鷹司殿下へ伺候しました。もちろん、竹内流捕手の演武をしています。ここで加賀介に任じられ、竹内加賀介久吉を名乗るようになります。久吉61歳のときです。また、「日下捕手開山」の御綸旨と三十六歌仙の御宸筆を賜りました。あれれ、日下捕手開山は、久吉が14歳のときに父が賜っています。捕手を家芸としている竹内家としては、二度目の快挙です。
また、久吉は「竹内相続・藤一郎通居」を仰せつかりました。代々にわたって竹内家の家督を相続し、相続した者は代々にわたって藤一郎を名乗るがよいというものです。やがては次男角左衛門久次が家督を継ぎ、竹内藤一郎を名乗るようになります。
晩年の久吉は大事業に取りかかることになります。自分が生まれた豊作地原(ぶさちはら)から中腹の坂元(現在の宗家道場のある一帯)へ屋敷を移しました。家宅を普請し、「開か(け)ずの間」を設けて祖神を勧請しました。稽古場を建てたのですが、稽古の気合や音に牛馬が驚くので道を付け替えたという話が『古語伝』に残っています。
今までの古い屋敷のあった所や豊作地原一帯は、その後、「竹内原」(たけのうちばら)と呼ばれるようになっています。
門人墨附きは三千八百余。寛文11年(1671)3月6日、69歳で永眠。没後350年を経ていますが、竹内家の仏壇には「清雲院月山浄教居士尊霊」と朱漆書きされた位牌が今も安置され、子孫を見守っています。また墓石は竹内家の墓地で 風化に耐え、静かにたたずんでいます。
*「御宸筆」=ごしんぴつ
*「伺候」=しこう
*「通居」=つうきょ
*「勧請」=かんじょう
《師の継承》
美作国垪和郷の一ノ瀬城主 竹内中務大輔久盛が編み出した「竹内流」と呼ばれる武術。その竹内流三代といえば、
です。この「親・子・孫」の三代にわたって流儀は集大成されました。
領地領民を治める城主の身から帰農し、自ら創始した武術を家芸とすることを息子に託した流祖 久盛。その親の意思を継いだ子、さらに孫。竹内流の業形は揺るぎないものとなり、二代目の墨附きは二千三百余人、三代目の墨附きは三千八百有余人と驚くべき門人数となりました。
三代目が没してから43年後の正徳4年(1714)、『本朝武藝小傳』巻の九が刊行されました。このような紹介があります。
四代目竹内藤一郎久次が流儀を継承している頃に書かれた本です。五代目竹内藤一郎久政が江戸に出立するより前のことです。「腰廻小具足で世に鳴り響いている流儀は竹内流だ」と断言しているのです。
この竹内流は、二代目竹内常陸介久勝が「掟」で特別なお膳立てをしました。
門人は竹内流の師を名乗らないでねと釘を差しました。竹内家の子が師となり、またその子が師となって流儀を継承できるように定めたのです。
《宗家と相伝家》
七代目までは一時の危機があったものの、順調に継承ができました。しかし、八代目 竹内藤一郎久愛(ひさよし)のときに大きな危機が訪れました。40歳になって一人っ子を授かって藤十郎と命名していたのですが、この子が7歳の春、八代目は体調不良を感じ始めました。このままでは流儀が廃れることを恐れました。そこで大英断です。
久雄(ひさかつ)というのは、弟竹内政次郎久職(ひさもと)の長男 竹内角之氶14歳のことです。久職は2年前に亡くなっておりますので、久愛は残された角之氶を養育していました。その角之氶を養子として家督を継がせるのです。もちろん、藤一郎を襲名させます。
では、久愛の一人っ子藤十郎は? 母もろとも分家させる構想です。弟久職が文政5年に建て、久雄が生まれ育った家があります。そこへ母と一緒に住まわせることに決めました。
天保7年(1836)の7月、とうとう久愛は病に伏せるようになります。9月には次第に病が重くなり9月19日、ついに帰らぬ人となりました。
久種は母に連れられて分家です。宅地、田地畑地、山林はそれぞれを半分に分け、墓地は共同。家伝の流儀は同じものをそれぞれが管理運営します。
流儀を二本立てにしておけば、流祖以来の血脈は絶えないだろうと見込んでの策です。
えっ、これでは血脈は続いても術技が絶えるのでは?
その心配はご無用!
竹内流の「印可」の者は「後見役」です。「免状」の者は「後見代」です。いずれも二代目が定めたもので、掟の役附に明記されています。印可や免状の位は、単なる修業の証ではなくて、流儀の後見という大役が課されているのです。
後見役や後見代は、七代目竹内藤一郎久孝の代から計画的に養成されてきました。いざというときのために流儀の奥義を極秘で託したのです。誰にも教えないと起請神文で誓っている意味がお分かりですか。師の許しによって一子にだけは伝えるという仕組みなのです。俗にいう「免許皆伝」とは意味が全然違うのです。
印可 後見役の代表的な人物としては、杉山彦兵衛為義や竹内雅門太久居などがいます。
竹内流は、流儀の術技と血脈を絶やさないために、九代目以降は「竹内流宗家」と「竹内流相伝家」の二本立てとしています。この宗家と相伝家が竹内流の師なのです。
*「垪和」=はが
*「本朝武藝小傳」=ほんちょう ぶげい しょうでん
*「捕縛」=ほばく
*「小具足」=こぐそく
*「嫡子」=ちゃくし
*「印可」=いんか
*「免状」=めんじょう
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