竹内流の精神

心技一体で “ 心 ” を磨く!


 

「兵法の奥義に仁義礼智信 たえずたしなみ気遣いをせよ」

~『心要歌』~

(現代仮名遣いで表記)

ええっ、むずかしそう!

いえいえ、大丈夫、「柳に風」でいいんです。

 

竹内流は「伝統の形」だけの稽古ではありません。

三つ指? 残心? 道歌?

流儀の「心」はこんなものにも宿っています。

 

「心」の扉をほんの少しだけ開いて

のぞいてみましょう。 

*「兵法」=へいほう、武術・武芸のこと。

*「奥義」=おうぎ・・・・・・・・・・・

*「仁義礼智信」=じんぎれいちしん・・・

*「心要歌」=しんようか・・・・・・・・

*「残心」=ざんしん・・・・・・・・・・

*「道歌」=どうか・・・・・・・・・・・

〈主な項目〉

◆ “礼・気合” に流儀の基本

◆兵法の心を『心要歌』で!

◆「智仁勇」は流儀の心

 


〔一〕”礼・気合”に流儀の心!

(一)礼の基本「三つ指・目付」

    三つ指をついて相手を注視! 竹内流独特の礼法です。

「三つ指」の礼法、「目付」の作法は竹内流独特!
「三つ指」の礼法、「目付」の作法は竹内流独特!

 

 第一は、三つ指(みつゆび)!

 

 向きあったら、左手、右手の順に手を伸ばして床につきます。そのとき、小指・薬指を曲げ、人差し指・中指・親指の3本は伸ばしてつきます。五本の指でなくて「三つ指」をつきます。片手でなくて「両手」をつきます。これには人としての心が込められています。

 

 この無防備の状態で、「よろしくお願いします」とか「ありがとうございました」などの気持ちを込めて互礼をします。相手に誠意を示すところが流儀の特徴です。江戸時代に一緒に稽古をしていた武士も庶民も、同様に振る舞うのが掟でした。

 

 第二は、目付(めつけ)!

 

 礼をするときには、目はどこへどのように向けたらよいのでしょうか。竹内流には、礼をするときの独特の「目付」の作法があります。

 

 向き合ったら、相手の顔面に目をつけます。指を床につくときも、礼をするときも、相手の顔面を注視します。竹内流独特の鋭い目付です。

 

 もちろん、鋭い目付は稽古のときの作法であって、社会生活の礼法には通じません。しかし、この目付を豹変させると、相手の目を見ながらのにこやかな社交に発展します。

 

(二)目付と残心

   「目付」と「残心」は表裏一体!

*「目付」=めつけ・

*「残心」=ざんしん

相手の動静を常に注視する「蛙の目付」と残心
相手の動静を常に注視する「蛙の目付」と残心

 

 第一は「目付」のこと!

 稽古のときに相手のどこにどのように目を向けるのか、その目のつけどころが「目付」です。

 

 向き合ったら、相手の顔面を注視します。礼をするときもそうでした。その後で組討ちをするときも、まずは相手の顔面に目を向けるのが基本です。

 

 そして、形の流れにしたがって五体の動きに気を配ります。組討ちなどを始めるときから留めをするに至るまで、常に相手の動きに目を向けます。一つの所作が終わっても気を抜きません。

 

 口伝にこんな言葉があります。

  • 「かいる(蛙)の目付」

 何となくお分かりですね。

 

第二は「残心」のこと!

 

 互礼の後も、相手の動きを注視します。目付を継続します。気を抜きません。

 相手の動きや反応に備えるのです。

 

 へえっ、礼の後にもそんな心構え? そうなんです、これが流儀の特色です。この心の備えを「残心」と言っています。

 

 礼の後にも残心? そうなんです、竹内流では、礼も術技と同様に位置づけ、いつ、いかなるときでも相手の動きや反応に対応できるように気を引き締めているのです。

 

 組討ちを始めるまでの時間帯も同様です。目付は継続です。残心を続けます。また、形は留めで一応終結しますが、その後も相手の顔面を注視しながら移動します。特に捕手の場合、いつでもどこからでも対処できる体勢が必要なのです。

 

 口伝にこんな言葉があります。

  • 「紅のまなこ」

 何となくお分かりですね。

 

 「残心」は「目付」と表裏一体です。まずは形の流れが一通りできるようになることが先決ですが、一応体得できてほっとしている門人が稽古中にびっくりする場面がやってきます。

 

 師範・師範代から鋭い気合と共に雷が落ちます。

 

 「ヤアッ!」

 

 何事が起こるのでしょうか。あなたはどう対応するでしょうか。

 

 楽しみにしてください。一度体験したら身にしみるはずです。竹内流独特の一度だけの貴重な稽古です。

 

 

(三)気合の基本型

 気合の基本の型は「ヤアッ・ホオッ・エイッ」です。

「ヤアアッ!」と度肝を抜く激しい気合で相手を威嚇!
「ヤアアッ!」と度肝を抜く激しい気合で相手を威嚇!

 

《 形のはじめに発する気合 》

 初発の気合は「ヤアッ!」です。 

1)初心の頃は「ヤッ!」

  • 腹の底から気を発します。
  • 一発必中で相手を打ち砕くかのような”強い気合”です。

 

2)慣れてきたら「ヤアッ!」

  • 丹田から発した気を相手の顔面にぶつけます。
  • 相手が思わず後ずさりするほどの”鋭い気合”です。

 

3)熟達してきたら「ヤアアッ!」

  • 丹田から発した気を全身全霊で相手の顔面にぶつけます。
  • 相手が怖じ気づいて降伏するほどの”激しい”気合です。「やらずして勝つ」ことをめざして稽古せよ、と言い伝えられています。

 

 

《 形の途中に発する気合 》

 途中の気合は「ホッ!」です。これが基本です。 

  • 形を極めるたびに気を発します。
  • 形に応じて、「ホッ!」「ホーッ!」「ホオッ!」などと変化します。

  気合はもちろん、丹田から発します。

「まいったか!」と、留めの「エエエイツ!」
「まいったか!」と、留めの「エエエイツ!」

 

《 形の終わりに発する気合 》

 最終の気合は「エイッ!」です。「留め」の気合です。

 

1)初心の頃は「エイッ!」

 

2)慣れてきたら「エエイッ!」

 

3)熟達してきたら「エエエイッ!」 


〔二〕兵法の心を『心要歌』で!

(一)『心要歌』

 

 『心要歌』というのは、竹内家伝来の『當流極意心要歌』のことです。

 

 竹内流の兵法の心、武術の心得を歌に託したものです。五十九首の道歌から成っています。二代目竹内常陸介久勝(1567~1663)がまとめ上げ、竹内家が伝承しています。

 

 竹内家の代々の師は、この心要歌で門人に武の道を説き、形の稽古に心を吹き込ませました。

  • 師の唱える道歌を復唱。
  • 道歌をめぐって師と問答。
  • 道歌の書き写し。(以後は一字一画も書き写しをしないという約束)

 

 

 

*「兵法」=へいほう、武術

*「心要歌」=しんようか

*「當流」=とうりゅう=「当流」

*「道歌」=どうか


 

 兵法は かなわぬ折りの 身のためと 心にかけて 稽古よくせよ

 「兵法は叶はぬ折の身の為と心にかけて稽古よくせよ」(原文)

 

 師が門人に一首を伝え、その意味を問います。門人はそれに答えます。師はさらに問い詰めます。

 

 まさに、禅問答です。お分かりですか? 問答によって稽古に励む心が深まっていくことが。

 

 兵法は 腰の刀に 相同じ 朝夕いらで いることもあり

 「兵法は腰の刀に相同じ朝夕いらでいる事も有」(原文)

 

 稽古が「武」の道の修業ならば、心要歌は「文」の道の修養です。つまり、竹内流の稽古場は、武の道の修業の場であると同時に文の道の修養の場でもあったのです。現代風にいえば、武の道・文の道の専門学校ですね。

 

 それにしても、「朝夕いらで」とは絶妙な表現です。形の稽古に励みがつきます。

 

 わが心 鏡のごとく 磨きなば 敵の相形 みな移るべし

 「我心鏡の如く磨きなば敵の相形皆移るべし」(原文)

 

 心を鏡のように磨く?

 

 ええっ!と驚きです。敵の動きがすべて察視できる? よし、挑戦!

 

 心要歌は文字どおり、兵法の「心」の「要」(かなめ)に迫る道歌なんですね。

 

 *

 

 『心要歌』は竹内家の秘奥とされていますが、起請神文を認めた高弟にはその一巻が伝授されています。

 

 しかし、「他見他言不免之」という条件がつけられています。誰にも見せたり言ったりしてはならないのです。

 

 問い「ええっ、そんなことができるの?」

 

 答え「できるのです。心要歌で “仁義礼智信” の心の問答をしているからです。」

 

 問い「心要歌でそんな心を?」

 

 答え「そう、仁義を心得て、礼智信に篤い人になるんですよ。」

 

 兵法の奥義に仁義礼智信 たえずたしなみ気遣いをせよ

 「兵法の奥義に仁義礼智信 たえづたしなみ気遣をせよ」(原文)

 

 これは『心要歌』の冒頭の道歌です。竹内流では、仁・義・礼・智・信の五常の徳を尊びます。稽古の場でも日常生活においても、たえずたしなみ、気遣いをするようにとすすめています。

 

 ということは、竹内家伝来の形だけを稽古するのではないということ? そうなんです、心技一体の稽古です。門人は、仁義をわきまえる人、礼を重んじる人、知恵を働かせる人、信頼を得る人をめざしています。伝統の形の稽古に励みながらも、仁義礼智信をわきまえ、気遣いをする人。それは竹内流を修業する門人の理想像です。

 

 現在ではこれらの道歌を『日本武道全集』(人物往来社)や『日本柔術の源流 竹内流』(日貿出版社)などで公開しています。 

(二)師範の選ぶ“ベスト3”

 

 心要歌は五十九首の道歌から成っていますが、代表的なものを三首選んでみます。

 

 

《第一位》

 当流を五体に配りみるときは 組討ちこそは流の心よ

 「當流を五體に配りみるときわ 組討こそは流の心よ」(原文)

 

 竹内流の本質をずばりと表現した道歌です。初心の門人には何のことか見当がつかないはずです。しかし、熟達の門人は「組討こそは」(くみうちこそは)の七音に注目するはずです。

 

 腰廻小具足は二十五ヶ条もあって、形はそれぞれ異なっています。小具足と呼ぶ小刀を使います。この小刀は五体のどの部位をねらえばよいのでしょうか。

 

 ヒントは「組討こそは」にあります。小具足は組討ですので、着用している具足の隙をねらって刺すのが流儀の心ということになります。ああ、そうだったんかと、言われてみれば簡単です。

 

 形の流れは見よう見真似で分かるのですが、技のポイントはこんなところにあるというのです。そんな風に流儀のポイントを道歌に託しているのが『心要歌』なのです。

 

 でも、その境地に達するのは至難の道ですよね。難解です!

 

 

 

《第二位》

 兵法の奥義に仁義礼智信 たえづたしなみ気遣をせよ (原文)

 兵法の奥義に仁義礼智信 たえずたしなみ気遣いをせよ (現代仮名遣い)

 

 竹内流では、仁・義・礼・智・信の五常の徳を尊びます。稽古の場でも日常生活においても、たえずたしなみ、気遣いをするようにとすすめています。

 

 ということは、腰廻小具足の形だけを稽古するのではないということです。心技一体の稽古をします。仁義をわきまえる人、礼を重んじる人、知恵を働かせる人、信頼を得る人をめざすのです。

 

 竹内流を修業した人はみんな仁義礼智信をわきまえ、気遣いをする人ばかり? そうなんです、師弟一体となって伝統の流儀を粛々と守っているのです。

 

  

《第三位》

 花ははな紅葉はもみじそのままに 言うて教る以心伝心

 「花は花紅葉はもみじその儘に 云うて教る以心伝心」(原文)

 

 

 花や紅葉は目に見えるものです。比べることができます。そのまま言うて教えたり教わったりすることができます。

 

 しかし、心はどうでしょう。稽古をするときの向上心はどう教えたり教わったりするのでしょうか。形(かたち)はもちろん声もなく臭いもありません。ただ、“師の心を以て門人の心に伝える” しかないのです。「以心伝心」です。

 

 ええっ、そんなことは不可能? いえいえ、それをやるのが師なのです。もちろん、印可・後見役や免状・後見代、師範代ともなれば以心伝心はお手のものですよ。

 

〈ちょっと一息〉

 

 「教る」という言葉に注目! その読みと語義は「教える」でしょうか、「教わる」でしょうか。

 

 二代目が詠んだものですので「師が教える」のが原義です。門人の立場からすれば「師から教わる」のが筋です。したがって、師の立場で読むのはおこがましく感じられますので、竹内流の門人、わけても高弟は「おそわる」と読んできました。

 

 しかし、一般の方々は、「教える」と読む方が自然です。現在では、どのように教えたらよいのかという教育方法論の一つ、「以心伝心」の学習論として注目されています。日本独特のこの方法論は、海外の人には難解至極のようです。

  


〔三〕智仁勇は流儀の心!

(一)『三徳抄』

石灯籠に刻まれた三徳の「智仁勇」
石灯籠に刻まれた三徳の「智仁勇」

 

 竹内家には『三徳抄』が伝わっています。四代目竹内藤一郎久次がまとめ上げたものです。

 

 三徳とは「智・仁・勇」のこと。この教えは流儀の心になっています。元々は孔子の言葉で、論語に登場します。

 

 指導者(聖人)は智者になれ、仁者になれ、勇者になれというのです。いや、智者だけでもいい、仁者だけでも勇者だけでもいい、3人寄れば文殊の知恵です。知恵のある人、思いやりのある人、勇気のある人がそろったら組織を大きく動かすことができるのです。

 

 四代目はこの三徳を和装丁◎頁に及ぶ抄本としてまとめ上げました。それが『三徳抄』です。竹内家の師たる者は、入門してきた津山藩や岡山藩などの家中に徳を説く必要がありました。いわば、その虎の巻です。

『三徳抄』の冒頭部分
『三徳抄』の冒頭部分

 

 

 原文は漢字と片仮名で書かれています。大変難解な冊子です。解釈が大変むずかしいというのが実感です。

  • 「聖人ノ三徳」心ニ疑ナキハ知ナリ 心ニヨク分別シテ後悔ナキハ仁ナリ。心剛ニシテツヨキハ勇ナリ。論語ニ孔子ノ・・・

 

 稽古のときや雑談中に、師の口からさりげなく具体的な言葉が飛び出します。「智・仁・勇」の教えです。

  • 二尺四寸の木刀を一尺二寸の小刀にしたのは「知」であり「智」! お分かりですか。
  • 相手が戻ろうとする力を利用して引き倒すのは「知」であり「智」! お分かりですか。
  • 痛がっている稽古の相手に手加減をするのは「仁」! お分かりですか。
  • 斬ってしまわないで寸止めにするのは「仁」! お分かりですか。
  • 斬るべきところを思いとどまって寸止めにして捕るのは「勇」! お分かりですか。

 

  竹内流では、形の稽古を通じてその奥に潜む心を修業します。そして、たどり着いた所が「智」であったり「仁」であったり、「勇」であったりします。もちろん、兼ね備えること大歓迎です。

 

 

 竹内家が伝えている『三徳抄』の智・仁・勇の教えは、『心要歌』の五常の徳の教えとともに、竹内流の「心」の重要なです。

 

 

 

 

(二)師範の説く『三徳抄』は・・・

 

 

 竹内流相伝家十三代目は、門人にこんなことを説いています。

相伝家十三代目が「智仁勇」を絵付けした砥部焼
相伝家十三代目が「智仁勇」を絵付けした砥部焼

 

 竹内流は「智・仁・勇」の精神を大切にするんじゃ。元々は孔子の教えなんじゃが、これを四代目竹内藤一郎久次が『三徳抄』としてまとめ上げてのう。特に、武士が門人になったときには、代々の師はこれを元に文武の道を説いてきたんじゃ。

 

 何なに、『三徳抄』は竹内流の師でなくても知ってる? 

 

 それはそうじゃろう、『日本柔術の源流 竹内流』(日貿出版社、1979)や『三徳抄』の冊子で公開しとるけんなあ。でもなあ、「智・仁・勇」の教えは、竹内家が伝える竹内流の心なんで。

 

 えっ、「智仁勇」ってどういう意味かって?

 

  • 一つ目の「智」は知恵をめぐらす人になれということじゃ。相手の動きを利用したり、急所やツボをフル活用したりするなど、臨機応変に知恵を働かせるんじゃ。「智」は「知」のある人、つまり「智者」という意味じゃ。

  要するに、知恵を働かせて稽古をしなさいということじゃ。そうすれば「智者」になれるかも知れないぞ。

  • 二つ目の「仁」は思いやりの心を持つ人になれということじゃ。真剣勝負の世界では相手が命を落とすかもしれん。そのときには成仏を祈るんじゃ。勝ったからといってガッツポーズをするのは「智仁勇」の教えからは完全に反則行為じゃ。これが「武」の世界というもんじゃ。

  稽古の時に相手が痛がっていたら手加減をするじゃろ? あれは「仁」じゃ。捕手の「生け捕り」の精神はまさに「仁者」の心じゃ。

  • 三つ目の「勇」は即座に適切な判断を下す人になれということじゃ。武の場面では、相手・的を殺すのか、傷つけるだけにするのか、寸止めをして相手を生かしておくのか、咄嗟の判断をせにゃあおえん(しなければならない)。そのときの心情が勇気じゃ。

 待ったなしの場面での即断は「勇気」? そう、勇気のいることじゃ。稽古で迷ったっときには自分なりに判断してまず動く! それが「勇者」じゃ。

 

 武士は漢字などが読めるんで講読や臨書ができたけど、庶民には形の稽古をするときに師がさりげなく話して諭したそうじゃ。三徳の教えは流儀修業の根幹じゃ。流儀の役附(達者・目録・次臈・免状・印可)となるための心得じゃ。

 

 すべてを兼ね備えることは至難のわざじゃが、秀でたものが一つでもあれば至福じゃのう。

 

 

 


 

 いかがでしたか。

三つ指や目付にまでも

流儀の心が宿っているなんて驚きですね。

 

道歌で結びます。

 

「わけ登る麓の道は遠けれど

同じ雲井の月を眺めん」

『兵法初心手引草』